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日記・一般皆様お疲れ様です。
震災が発生してから一カ月が経ちました。この一カ月もの間、日常生活の在り方や身の周りのことについて何度も何度も反省ばかりしておりました。
今、ここに生かされていることに対しての感謝の気持ちと平穏無事にお仕事をさせて頂いていることに対する感謝の気持ち、今日も一日無事に過ごすことが出来たという感謝の気持ち、これまで生きてきた中で、どんなマイナスなことを告げられようとも、それは自分に対する忠告を教えて下さったという感謝の気持ち、全てのことに感謝です。
日常の身の周り・・・テレビ、パソコン、冷蔵庫、給湯器、換気扇、エアコン、ストーブ、電子レンジ・・・等々、数えきれない位の便利機器。全ては電気を必要とする便利機器ですが、ふと、亡き父が話していたことを思い出しました。「戦後は何も無く、食事も普段の生活も工夫をしながら何とか生き延びられたものだ。」と・・・。しかし、そこには今とは大きく違うことがあり、心からの人間関係が少なからず構築され、隣近所が親戚同然で、そういうようにお互いで援けあわないと生活は出来なかったと言っていました。
ところが、今や、世の中が便利すぎるくらい便利になりすぎて、テレビはカラー、そして、デジタルへ。冷蔵庫も冷凍庫が当たり前に併設され、風呂も各家庭の中で設備され、家もセントラルヒーティング、さらにオール電化、買い物もコンビニエンスストアが至るところに存在しており、それもほとんどが24時間営業となりいつでも欲しい時に購入できる時代になっりました。
小さい頃、カラーテレビが珍しく、父親にせがんだ記憶があります。せがみ始めてから数年が経過し白黒テレビが限界を迎えたのを機にカラーテレビが我が家にやってきました。あの頃、新聞のテレビ欄に「カラー」と表示された番組はカラーで観ることができました。それがカラーテレビの普及と共に番組もカラーが当たり前になっていったのです。テレビは白黒という固定観念が一気に覆された時の衝撃は今もなお蘇ってきます。そして、ズバコンなどという遠隔操作が出来る懐中電灯のようなリモコンが出てきたりと、まさに日進月歩の進化でした。
テレビだけではなく、様々な便利機器が創られてそれらのほとんどが心揺さぶられるような代物だったのではないでしょうか。世に出始めたばかりの機器を買える家庭は、思い返せば会社経営をしている社長の家などの裕福なご家庭だった気がします。私は涙を飲んで我慢した記憶ばかりです。それこそ、いつかはクラウンではありませんが、ステータスだったのでしょう。それは、今もなお似たような場面があるような気がします。
さて、実のところ、何を言いたいのかと言うと、便利すぎて今の世の中にとって最も必要なことは何なのかということです。今朝もいつもどおりの道を通り事務所に向かいましたが、色々な自動販売機が立ち並んでいる商店の前を通りかかりました。すると、たばこの自販ですが、ほとんどが売り切れ表示のランプが点灯しており、いわゆるただの箱状態だったのです。それなのに、どうして電気を用いなければならないのかが理解できませんでした。
震災後、節電という言葉が毎日のように耳にしますが、節電の意味を考えていたのです。函館市内にはどれだけの自販機が設置され、そのうち、今朝のような自販機がどれだけあるのだろうかと想像すると相当数の自販機があるはずです。昔のように店頭販売をすれば電気も不要かもしれません。店頭販売することで、対面ですから少なからず人間関係ができ、さらに、未成年者への販売も阻止出来るかもしれません。ところが、利益追求第一主義でゆけば人出を減らして器械に販売させましょう。となったはずです。
しかし、いずれは原点に戻るような気がしています。私も便利機器であるパソコンを用い、このブログを書きあげていますが、本来だったら手紙や電話で近況を伝えると良いはずです。事務所では、少しでもペーパーを減らそうと試行錯誤していますが、やはり、アナログ的発想になってしまいます。パソコンを100%信用出来ないのです。パソコンだって電気が無ければただの箱同然です。ですから、手で書く作業を略してはならないことをこのブログを書きながら気づかされています。
アナログ・・・そこには人の温かみがある。これに尽きるのではないでしょうか。人間が面倒くさいという発想になってしまったら、発展はあり得ませんね。そもそも、面倒くさいなどという発想を持つこと自体がナンセンスですが。人の人による人のための人なわけです。そこには情があり、気という繋がりがあり、言葉では言い表すことが出来ないほどの感動を秘めているのです。人の手で出来ることは幾らでもあるでしょう。出来ることは自らやる。という気概をもって、震災被災地の皆様への間接的な支援をしてゆこうではありませんか。明日も本気で!そして、感謝です。