今日は朝から外勤続きでした。5、6件の完結書類をお客様にお届けするためです。明日も続きます。毎日、時間をどのように効率よく過ごすかが我が事務所の課題であり醍醐味であるのです。ここのところ、毎日のように新規業務を受託しており、今日も海外?と思われる方からの業務依頼でした。
さすがに月初の最初の月曜日ですから、役所も混雑していました。市役所は人間観察するには最適な場所でもあります。高齢とまでゆかぬ顔色が悪いお母さんと共に現役茶髪のお兄ちゃんが生活保護窓口であーでもないこーでもないと駄々をこねていたり、窓口で自分の要求通りにならないと怒鳴っている人物がいたり、本当に様々です。我々の仕事は明日にはどうなるか分からないという不安定さがあるのですが、それを楽しまないと嘘です。
さきほどの窓口でのお兄ちゃんに注視していると、権利主張ばかりが目立ちます。本人は働こうと思えば働けるような風貌と目の輝きです。今や、もらえるものはもらっておけ的な傾向が強くなっている気がしますが、そのお兄ちゃんの生い立ちについて勝手に想像していました。お母さんは、きっと一生懸命に手塩にかけてお兄ちゃんを育てたのでしょう。手塩のかけ方が果たして本来だったのでしょうか?今日の様が結果とすれば原因は容易に察することが出来るでしょう。
手塩とは、目の前に置かれたで、自ら味加減を手塩皿に盛られた塩で調製するために置かれた塩ということから、自ら直接面倒を見るという意味に繋がったようです。面倒の見過ぎ、手を掛け過ぎた結果、自ら発想せずに与えられたことだけをこなしてゆくような勘違いが起きたのかもしれません。しかし、誰とて自らの欲求など他人が押さえつけられない感情があるはずです。ところが、小さいころから押さえつけられながら育ち続けると、結果、窓口にいたような人物に至ってしまうのではないかと、自戒しながら考えていたのでした。
いつも、想うのはこの世に生を受けたのですから、そもそもの人間としての役割を自らの責任でもって果たしてゆくことが使命であるのではと思えてなりません。崖っぷちに立たされて、時には人に裏切られたとしても、自分に全く責任が無いのかと言えば、絶対にそんなことはありません。誰かのせいにすることや言い訳などは年を増すごとに聞きたくもありません。さらに、プライドが高ければ高いほど軌道修正はほぼ困難かもしれません。場面緘黙症という症状がありますが、これに似たような日常の場面で起きていることを垣間見たことがあります。
それは、事務所での仕事の時、私がいるのといないのとでは、態度が変わるというものです。これには、私は随分と頭を悩ましました。スタッフ間でもそのとおりです。いわゆる、いじめのような形態かもしれません。話は随分と逸れましたが、子供は親の鏡であるということをあるお客様から言われたことが今日の一番の印象です。それは、誰がと言うことではなく、私自身、子供を見た時に、親の私はどのように見られているのだろうかと赤面しながら考えていました。
子供は親の鏡・・・まさにそのとおりでしょう。だってね、子供は誰を見て育つかと言えば、親ですからね。頭ごなしに子供を押さえつけると将来子供は確実に爆発するでしょう。その時になってからでは遅いのです。随分以前に、ある会社社長が、50歳で自分に何かを気づき、軌道修正しようとしたら50年かかると言われたことがあります。これは、本当のことだなと実感したことがありました。その前に、親としての責任をしっかりと果たさなければ子供は道標どころか路頭に迷うこと必至です。
私も、毎日帰りの時間が遅く、子供との会話は一週間に何時間あるかと言えば、何時間と言えるような時間ではありません。しかし、毎朝の短い時間で子供の表情を見、声を聴き、食事の様子を伺いながら子供の心情を把握するようにしています。そして、時間があるときに一気に会話を進めるようにしています。子供に物を買ってあげることはほとんどありません。必要な学用品や書籍などは一緒に探しにゆくようにしています。子供自体、あれ欲しいこれ買ってという言葉を聞いたことがありません。
あるものを活用する、あるものを最後まで使う、貧乏性と言われればそれまでですが、便利品が台頭し、五感が狂い始めている昨今ですから、原点をしっかりと気づかせるようなきっかけをつくるようにしています。口でいうのは容易いですが、行動を通じて子供が感じ、考えるように仕向ける図式です。義務を履行せず権利主張を繰り広げている様を見聞きすることがありますが、はっきり言って関わりたくはありません。なんだか、支離滅裂な内容になってしまいましたが、今日のお客様からのお話や人間観察を通じ、気づき、考え、反省させられたのです。
明日もまた面白い一日になることは必至だと断言します。何故なら、自分の見方考え方ひとつでそうなるのですから。